3月1日(日)礼拝説教要約
「罪人を招くために来たイエス」 マルコ2:13~17
イエスの弟子のひとりに、かつて収税人をしていた者がいた。
収税人
収税人の仕事とはローマの税の集金役。重い税を強いられていた被支配国ユダヤにとって収税人は、ローマの手先、敵国の手先、売国奴、盗人。なぜユダヤ人がそのような仕事をするのか?多くの場合はお金の為 貧しい社会情勢。
食事をする
異邦人・罪人・遊女(生活の為)・収税人 罪人とは食事をしてはならない(交わってはならない)ユダヤ社会で食事をするとは特別なことで、家族や友となることを意味する
1、収税人レビ(マタイ)の招き(:14)
収税所で仕事をしていた、その時、レビ(マタイ)をご覧になって声をかけられた。「わたしについて来なさい」。すると彼は立ち上がって従った。並行記事は、マタイ9:9~13、ルカ5:27~31。マタイ本人が書いた記事は、レビと書かずにマタイという名を使っている。マタイは収税人仲間の呼び名?
収税人レビを弟子の一人とすることの影響。主イエスの評判は下がる。事実そうであった(:16)しかし、イエスは気になされない。弟子たちの中にも、何故という声も上がったかも知れない。しかし、イエスは収税人レビを招かれた。3つの福音書は、何ゆえにレビが弟子に選ばれたのかを書いていない。実に3つの福音書に共通するのは、イエスの招きにすぐにレビは従った。
座っていたレビをご覧になって、イエスは目をとめて。
イエスは彼の何を見られたのか。彼の過去ではなく、彼のこれから。後に「マタイによる福音書」を彼は記す。
イエスは私達の何を見られるのか。今か、未来か。
マタイはユダヤ人でありながら収税人であったが、やはり、金銭を愛し、律法学者やパリサイ人が教えるようなユダヤ人的な生き方を、自ら拒んだ者のひとりであっただろう。彼はそのいすに座って、通行税を取り立てることが日常であったであろう。誰かの色眼鏡にも屈することをせず、もしかすると、当時の宗教的闇を察知して、骨のある我が道を進む人であったのかも知れない。
「わたしに従って来なさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った(何もかも捨てて ルカのみ。
座っていた彼は、イエスの招きに立ち上がって従った。彼の座っていたのは収税所の椅子。
2、食事を共にするイエス(:15~17)
彼の食卓で食事を共にしていたイエス。イエスに従った人の中に、このような人が大勢いた(:15)。
罪人を招いてとあるが、多くの人は自分がそれほど罪ある者であるという自覚はない。普通に過ごし、普通に生きている。罪人とは神の意思(みこころ)とは関係なく、自分のいすに座る人生。自分の思いや、願い、計画、好み、まことの神の造られた世界において、神なき人生を送る者。神を見上げない民=異邦人。
主イエスは招き、レビは立ち上がった。そしてイエスに従った。私達はどのような椅子に座っているだろうか?
収税所から見える彼の人生の景色とイエスに従ってから見える彼の人生の景色は どんなに違っていたであろう。
主イエスは罪人を招いて救う為に来られた。救い=神につながり、みこころを求め、従う人生。
丈夫な人に医者はいらない。いるのは病人である。律法学者やパリサイ人は 健康な、罪のない者だったのだろうか。私達はどうなのだろうか
「罪」の自覚は 人それぞれである。収税人や罪人、遊女の方がその自覚は大きかったかも知れない。しかし、法に触れる犯罪や、不道徳、不倫理なことや、当時の体制に反することだけが罪というのではない。心のあり方、気づかないで犯している罪、無関心や、自己中心、自己正当化、罪を罪として認めないこと、責任転嫁。そして、私達を造り、愛して下さる神を認めない不敬虔さ。自覚し、「神様、わたしは罪深い者です」と神の御前に、十字架に架かられた主イエスの御前に出る者でありたい。
私はイエスを必要としない健康な者です。ではなく、主イエスの救いを必要とする罪人です。と神の御前に出たい。そのような者をイエスは招き、救い、生涯の友となって下さる。
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