3月8日(日)礼拝説教要約
「安息を与えるイエス」 マルコ2:18~28
イエスは貧しい者、弱い立場の者、罪人の友となられた。一方、当時の宗教的指導者を痛烈に非難・叱責されている。
1、断食について(:18~20)
旧約の律法に基づいて断食をしていたパリサイ人、ヨハネの弟子(クムラン・禁欲生活)。しかし、イエスもその弟子たちも断食していなかった。
「花婿と花婿の付き添いの友達は一緒にいる間は断食しない。今は断食しないが花婿が取り去られる日には断食する」。「断食」は定期的にしなければならないものではなく、「断食」をもって自らを制し、神のみこころを求め、祈りに集中する目的がある。
しかし今はイエスの口から直接に、神のみこころを聞けばいいのであって、断食して、神のみこころを求める時ではない。しかし、「花婿が取り去られる日」には彼らは断食をする。
2、安息日について(:23~28)
イエスへの一番の非難は、安息日を守らないというもの(安息日論争)。安息日に何の仕事もしてはならないという律法の違反。安息日に、麦畑を通って道々穂を摘み始めた。又、安息日に病人を癒されている。
「祭司しか食べてはならない供えのパンを、ダビデとその供の者が食べた。安息日は守らねばならないものだからあるのではなく、人のために神が設けてくださったもの(参考・第一サムエル21:1~6)」。
安息日は人の為に神が設けてくださったものである。
そして、安息日の主はイエスご自身である。イエスが安息日の規定に支配されることはなく、安息日はイエスから、休み場(真の休息・魂の平安・永久の癒し)、そして聖別と祝福を受ける為にある。イエスは律法や安息日を否定しているのではなく、本来の意味(神が人を祝福し聖別される)において実践しようとされている。
日曜日の礼拝はその戒めを守る為にあるのではなく、イエスに祝福と聖別(シャローム)を受け、ここから派遣される為にある。
人の子(イエス)は安息日の主である。 *主イエスはご自身を「人の子」と呼んでいる(特にルカ23回)
人の子
ダビデの子孫としての王であるメシア
イザヤ書にある苦難の僕であるメシア
ダニエル書にある審判者としてのメシア
新しい布切れが古い着物を引き裂き(:21)、新しいぶどう酒が古い皮袋を張り裂く(:22)。直接的には旧約と新約を表している。イエスの十字架による新しい契約、主イエスの教え、その生き方も、古い戒めの中には入れておけない。
変わらない真理とその戒めにある本質。しかし、変化していく時代・文化への新しい変換。福音宣教の視点と、時代・国に応じたキリスト者の生活のあり方。この素晴らしい恵みを私達は常に新しい皮袋を用意して入れるべきである
ヘブル的背景をヘレニズムに置き換えたパウロ。宣教の為に(〇を△に)。ラテン語の聖書を英語に翻訳して、民衆に配布した宗教改革。日本語聖書の翻訳の刷新。新しい礼拝、賛美、時代に響くメッセージ。私達のライフスタイルはどんどん変化している。
(ラインホールド・)二―バーの祈り(大木英夫訳)
神よ、変える事のできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与え給え。
変える事のできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与え給え。
そして変える事のできるものと、変えることのできないものとを識別する知恵を与え給え。
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