3月15日(日)礼拝説教要約

「正しい事を行う力」  マルコ3:1~16

信仰とは文字通り、信じて仰ぐこと。仰ぐ対象は神であり、主イエスである。私達は聖書に証言されているイエスに今日も目を向ける。私は弱いが、キリストは強い。私は貧しいが、キリストは富んでおられる。私は誘惑に脆いが、キリストは勝利された。私はこのお方と共に生きており、このお方が私の内に住んで下さる。私は弱いが、私はキリストにあって強い。

キリスト者は人として強くなれるのか。

自分が強くなる。自分を高める。冷たい人が優しくなる。意志の弱い人が強くなる。我慢できない人が我慢強くなる。周りの空気の読めない人が読めるようになる。人格も高く、倫理観も、意思も強くなる。キリストに従う者が高められるものは大いにある。しかし、私達が聖書に聴くメッセージは、栄誉、強さは自分にではなく神にあるというもの。

私達は流されやすい。言いたいことが言えない。するべき事もできない。勇気がない。正しいことがわかっていても、周りの空気に押し潰される。しかし、主イエスが共にいてくださる。

「安息日」にしてはならないことをされるイエスに対して、非難する宗教的指導者たち。しかし、「人の子(イエス)は安息日の主である」。安息日はイエスが人を祝福し、聖別される日。安息日の主催者は主イエス。文字だけを読み、仕事を休まなければ罪である、というような本質ではない。安息日は人の為にある。安息日を守る為に人があるのではない。

イエスは、会堂で安息日に片手のなえた者を癒された。安息日にふさわしい。イエスから癒し、祝福を受ける日こそ安息日。主は私達のあらゆる患いを癒してくださる。しかし、本日注目するのは、「悪意・敵意」に囲まれる中で、まっすぐに正しい事を成されるイエスの姿。

主イエスに敵対する者たち。パリサイ人(:5)・ヘロデ党の者たち(:6)。*アウェイ

彼らは「じっと見ていた」(:2)。イエスを訴える口実を得る為。片手のなえた人を癒して、安息日を破らないか、監視していた。「心かたくなにしていた」(:5)。どうにもならない、人間の一番の悲劇が、イエスの救いの御手に対して心かたくななこと。「イエスを殺そうと相談した」(:6)。益々悪に傾く人々の心。

敵意に囲まれる中、躊躇なく、堂々と正しい事を行う力。決して容易な事ではない。しかし、小さな、弱い私も、主にあって強い。主イエスと共に、正しい事を行える。

「悪に負けてはいけません、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ12:21)。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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