3月29日(日)礼拝説教要約
「神の家族への招き」 マルコ3:20~35
(マタイ12:46~50、 ルカ8:19~21)
イエスの故郷ナザレの家族について。母マリヤ、弟のヤコブ、ヨセ、シモン、ユダ、そして妹たち(マルコ6:3)。今まで父ヨセフの代わりに30年、長男として大工の仕事をし、家族を支えて来たイエスが突然家を出て、多くの人を集め、病人を癒し、悪霊を追い出す活動を始めていた。「気が狂った」という噂を聞いて、家族はナザレからイエスを連れ戻しに来た。
イエスの実の兄弟については、イエスの弟子に彼らの名前はない。イエスを救い主と信じなかったのである。しかしイエスの復活後、イエスを信じ(使徒1:14)、次男のヤコブは初代エルサレム教会の指導者となり(使徒15:13)、ヤコブの手紙は彼の著であると言われる。
イエスは訪ねて来た家族ではなく、イエスの周りに座っている人たち(弟子たち、罪人、取税人、遊女、貧しい者、病人)を見回し、彼らに向かって、ご覧なさい、わたしの家族とは神のみこころを行う人だと言われた(:35)。
エルサレムから下って来た律法学者達は、イエスのなされている不思議な業を分析して、「彼は悪霊のかしら(ベルゼブル)に取り憑かれている。その悪霊のかしらによって、悪霊を追い出している」と言いがかりをつけた。
これに対するイエスのことばの厳しさは、その叱責、警告のことばの中でも類を見ない。「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます」。
人はどんな罪も、神の前に悔い改めるなら赦していただける。どんな罪もである。これは、十字架の贖いは、全ての人のあらゆる罪を赦す代価であることを示している。神をけがすことを言ってさえしても(ユダヤ人にとっては最大級の罪)悔い改めるなら赦される。
誰でも、主イエスの十字架は、ここにいる私の罪の為であると信じ、罪を悔い改めるなら、その罪は赦され救われる。これが福音である。
では、赦されることのない「聖霊をけがす罪」とは何か。直接的には、律法学者たちの言った「イエスは汚れた霊に憑かれている」という内容であろう。
「気が狂った」「悪霊に憑かれている」。イエスに対する間違った理解。イエスが家族と呼ばれるのは、血縁でも、聖書の知識の量でもない。神のみこころを行う者である。神のみこころとは、イエスを信じ救いを受け、イエスの業を行うことである。
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