4月5日(日)受難週 礼拝説教全文
「なぜ、イエスは神に捨てられたのか」 マルコ15:22~41
説教者:勝田台キリスト教会 竹田広志
本日から教会歴として、棕櫚の聖日(イエス様がロバの子に乗ってエルサレム入りした日)、受難週を迎えます。4月10日(金)は、主イエスが十字架につけられた受難日です。又、次週はイースター(復活祭)となります。
淡々と十字架の事実を記していくマルコによる福音書。福音書の中で一番短く、端的に十字架の出来事が記されています。
特に十字架上で主イエスが語られたことばは一つで(マタイも同じくひとつですが)、マルコ15:34。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というものです。これは詩篇22篇1節にあることばで、この22編の詩は、詩人自身の罪故にではなく、肉体的苦痛と、敵による迫害の中で、自分の祈りがまるで答えられない者のように悩む。神の沈黙と人々の嘲笑の中で歌われた詩です。
十字架(木に架けられた者)とは、「神に呪われた者、捨てられた者」(ガラテヤ3:13、申命記21:23)。木に架けられた者は、神に呪われたものであるという、単に処刑されたという以上の聖書的背景があります。
どうして、主イエスは神に捨てられたのでしょう。
本日は、マルコによる福音書の十字架の記事から、淡々と、ひとつひとつ十字架の出来事を追ってみて、私達がその十字架を見上げ、目撃している者のひとりのようにして、聖書を読みたいと思います。
1節、1節のことばをまぶたの裏に思い描いてみましょう。
○ ゴルゴタの丘(どくろ)へ向かって十字架を背負われ、十字架につけられた(:22)
エルサレムの町の外にある小高い丘、どくろの形をした(ゴルゴタ)へ向かって行かれます。その場所のおどろおどろしさは、神の呪いを感じます。
○ 主イエスは没薬をまぜたぶどう酒を飲まれなかった(:23)
十字架刑の激しい苦しみの故に、受刑者に対する憐みとして、そのぶどう酒には痛みをやわらげる麻酔のようなものが入っていました。しかし、イエスは十字架の痛みをやわらげることを自らしませんでした。
○ くじびきでひとつの着物を分け合う(詩篇22:18)(:24)
十字架の足もとではローマの兵士が、主イエスからはぎ取った着物をくじの賞品にしていました。これは詩篇22篇18節の、義人が神の沈黙のもと人々の嘲笑を受けている預言が成就しています。
○ 9時から12時、そして午後3時 計6時間(:25、33)
十字架刑はすぐに死ねるものではなく、長い時間苦しみを受けなければなりません。非常に残酷な処刑方法です。6時間もの間、両手・両足に打ち込まれた太い五寸釘からは、血が流れ続けました。
○ 罪状書き「ユダヤ人の王」(:26)
十字架の頭上には、罪状書きの板がつけられます。どんな犯罪でその者が処刑されたかが書かれています。主イエスの罪状は「ユダヤ人の王」でした。
○ ふたりの犯罪人の真ん中に(:27)
主イエスの右と左に、強盗が共に十字架につけられました。ゴルゴダの丘には3本の十字架が立っています。
○ 人々がイエスをののしる(:29~32)
十字架のまわりにいる人々は、主イエスをののしり続けました。しかし、主イエスは彼らのことばを黙って受けておられます。
○ 全地が真っ暗になる(:33)
昼の12時に全地は真っ暗になりました。一番明るい時に、まるで夜のようになりました。そしてその闇は3時にまで及びました。
〇 「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(:34)
主イエスは、父なる神に叫ばれます。どうして、主イエスは神に捨てられたのでしょう。
○ 酸いぶどう酒を差し出す役人(:35~36)
十字架刑は激しい渇きを覚えます。主イエスの喉も口も、身体の水分が血によって流れ出て、乾ききっていたでしょう。ヨハネによる福音書に「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)と言われています。主イエスは、大事なことばを宣言しなければなりません。酸いぶどう酒を受けました。
○ イエスは大声を上げて息を引き取られた(:37)
何を大声で言われたのでしょう。マルコにはそのことばはありません。しかし、ヨハネによる福音書「完了した」(ヨハネ19:30)、ルカによる福音書「わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)ということばがあります。
○ 神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた(:38)
神と人とを隔てる、神殿の聖所と至聖所の間にある、分厚い垂れ幕が、真二つに裂けました。
○ イエスに向かって立っていた百卒長は「この人は、まことに神の子であった」と言った(:39)
近くで一部始終を監視していた百卒長は、十字架のイエスの姿を見て、そのように言いました。
○ マグダラのマリヤとイエスに従った女たち(:40~41)
遠くでは、ガリラヤからイエスに従った女性達も十字架の出来事を見ていました。
ここで私達は深く思い返します。
どうして、病人を癒し、悪霊を追い出し、パンと魚を与え、人々に命と希望のメッセージを伝えた主イエスが、神から捨てられなければならなかったのでしょう。
どうして、重い皮膚病の人に触れ、罪人や収税人、遊女といわれる社会から排斥されている様な人々に触れてくださった、愛にあふれたお方が、神から捨てられなければならなかったのでしょう。
どうして、ののしり続ける人々の赦しの為に祈られるお方が、神から捨てられなければならなかったのでしょう。
どうして、罪のない正しいお方が 神から捨てられなければならなかったのでしょう。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
わたしたちはこの受難週に、主イエスのことば、「どうして」を問わなければならない。
どうして、神の御子・罪のないお方が、神から捨てられ、十字架で呪われて下さったのか。
それは、今ここにいる、わたしの、あなたの 罪ゆえです。
ローマ5章8節~10節
「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている者は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである」
*加えて 詩篇22篇全文を読んでみましょう。
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