4月12日(日)イースター礼拝 説教全文
「イエスはよみがえられました」 マルコ16:1~8 2020年4月12日(日)
主の御名を賛美します!ハレルヤ!場所は異なっても、心はひとつ!心を合わせて主を礼拝できますことを主に感謝します。
イースターおめでとうございます。HAPPY EASTER!主イエスの御復活を心からお祝い致します。
本日の礼拝は、コロナ感染による自粛によって教会堂に集まっては礼拝できませんが、自宅礼拝をそれぞれ持っておられることを感謝します。同じ時間、心を合わせて主を礼拝したいと思います。
先週、受難週の礼拝において十字架の足跡、その足元に身を置いた私達は、今朝はイエスの納められた墓に赴きます。イースターに教会ではゆりの花を飾ります。この季節にはイスラエルでは野ゆりが咲く頃だと言われています。
イエスの復活の出来事は4つの福音書に記されており、違った角度から、同じ早朝の出来事を書いていますが、本日はマルコによる福音書の記事を読みます。
マグダラのマリヤをはじめとする数人の女性たちが、イエスの身体に塗る香料を用意して納められた墓に出かけて行きました(:1)。日曜日の朝早く、日が昇る頃に。イエスの墓に行かなければならなかったわけとは。金曜日の午後3時に息を引き取られたイエスの遺体は、日没までに(当時日没で日付が変わった)急いで、安息日(土曜日)前に間に合うように墓に埋葬されました。安息日には、仕事、どんな働きもしてはいけなかったのです。応急的処置しかできず、しっかりとした埋葬がされていませんでした。墓に来た女たちは、安息日が終ったので、少しでも早くイエスの遺体を丁重に埋葬したいと願っていたことでしょう。
(アリマタヤのヨセフの準備した新しい墓の記事を読みましょう。マルコ15:42~47)
週の初めの日の早朝、すなわち日曜日の朝早くの出来事でした。女たちが墓に到着して見たものは何だったでしょう。墓石はころがしてあり、ぽっかりと暗く開いた空の墓でした。
当時の墓は、日本のものとは違って、岩山を横穴に掘った墓で、入口を大きな丸い石の蓋で閉じていました。その石は女性の力では開ける事のできない程重く、大きなものでした。
墓の中に入ってみると、墓の中には、イエスの置かれていた石の床の右側に、ひとりの真っ白な衣をまとった青年が座っていました。
女たちが最初に聞いた御使い(青年)の知らせ。それは、福音(ゴスペル)、良きおとずれ、グッド・グッドニュースです。暗い墓の中に輝く光。私達の人生のあらゆる暗闇に輝く光のメッセージです。
「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方は、よみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です(:6)」
よみがえられたイエスは、マグダラのマリヤに最初にご自身を現され、そしてエマオへ向かう二人の弟子たちに、そして、十一人の弟子たちにご自身を現わされました。そして多くの人々(500人以上の兄弟達)に、イエスの母、兄弟姉妹たちに、ご自身を現わされました。パウロは「最後に月足らずで生まれた私にも」、と言っています(第一コリント15:1~)。
この朝、私たちが耳にするメッセージの第一は、「墓の中にはおられません」です。墓は死、そして闇です。イエスは死人の中にはおられない。死んだ偉人の中に数えられるお方ではない。骨はない。冷たい、もの音一つもない、虚しい、暗い墓の中にイエスはおられないのです。
死は全ての人の、私達の人生の、私の人生の最後の課題です。死を経験することは、誰ひとり避けられないものです。必ずやって来ます。年老いていても、若くても、死はやって来ます。差別なく。人の行き着くところは「墓」です。しかし、イエスは墓の中にはおられません。私達はこの朝、驚くべき、その良き知らせを聞きます。
第二のメッセージは、「よみがえられました」です。よみがえりは光であり、そして命です。よみがえった新しい生とは、永遠の命であります。
復活されたイエス。そしてイエスにある(イエスを信じ、イエスに従う)人生の最後は闇ではない、よみがえりであり、命です。イエスのよみがえりは、死に対する勝利であり、人類の死の歴史に対する勝利であり、私(達)の死に対する勝利です。
このイースターに、「死」はわたしの課題であり、「罪」はわたしの最も大きな問題であることを知って下さい。
イエスのよみがえり、それはやがて時が来て、又、病で、老いで死んでしまう命ではありません。新しい命によみがえるのです。イースターには、教会でたまごをプレゼントします。たまごから、その殻を破って、新しい命が生まれる。たまごと、ひよこはまったく別物です。たまごからたまごが生まれるのではないのです。イエスを信じる者は、死んでもよみがえります。新しい永遠の命を持ちます。
第三のメッセージは、「お会いできます」です。私達はよみがえりの主にお会いできます。私たちの人生にイエスを迎える時、イエスは私達の人生に来て下さり、お会い出来ます。
教会(エクレイシア・ギリシア語)は主イエスとお会いする場所です。神を礼拝する人々の中で、祈り、賛美し、聖書を開き、みことば聞く中で、私達はイエスとお会いできます。
キリストにある兄弟姉妹の愛の交わり(コイノニア・ギリシア語)の中で、私達はイエスとお会い出来ます。
主イエスに信頼する働き(奉仕・宣教・学び)の中で、心を合わせて共に祈る祈りの中で、そして、私の日常生活で手を合わせる祈りの中で、どこにおいても。自然の中でも都会の中でも、空を見上げて「主よ」と呼ぶ時にも、主イエスを信じ、求める者に、主はよみがえりのご自身を現わして下さいます。
「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです(マタイ18:20)。
女たち、ふたりの弟子、十人の弟子、そしてイースターの今日、ここにいる私にもイエスはご自身を豊かに現して下さいます。
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)
* マルコ16:9~20 まで、「信じなかった」「信じなかった」と繰り返し書かれている記事を読みましょう。
信じてバプテスマを受ける者は救われます。と言われている、今も生きておられるイエスを見上げましょう。
勝田台キリスト教会 竹田広志
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