5月3日(日)礼拝説教全文
「神の国の豊かさに生きる」 マルコ4:21~34
イエスのお話、教えの中心は、「神の国」kingdom of God 神の王国(支配)についてです。
「神の国」とは何であり、それはどんなに素晴らしく豊かな世界であるかを説き、そして、あなたも、この「神の国」に入りなさい、得なさい、という勧めでした。
「世」とは、神から離れた、まことの神(天地を造られ、ひとり子を世に遣わされた神)を知らない、神を信じない世界です。「神の国」とは、罪の悔い改めと、十字架につけられ、三日目によみがえられたイエスへの信仰によって入る、それは神を信じ、神を礼拝し、神に従う世界です。
愛する人々に対するイエスの願いは、まさに人々がこの「神の国」に入ることでした。
罪がゆるされ、イエスに従うことがどんなに素晴らしいことなのか、私たちはもっともっと、その恵みの深さを、日々の生活の中で味わう者でありたいと思います。
本日の招詞は、イエスの最初の宣教のことば、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)でした。
この意味は、旧約の時代から預言されていた、神がご計画されていた時は来ました。神の国は既に到来しました。すぐあなたの前に来ています。罪を悔い改めて、ただそれを信じ受け取るだけです、というものです。本日の招詞、「時が満ち、神の国は近くなった」とは、イエスがこの世に来られたことこそ、「神の国」の到来であり、そして、「神の国」とはイエスがおられるあらゆる場所です。
マルコ4章は、主イエスの説教を主題的にまとめて、5つのたとえが記されています。
①種まきのたとえ(:1~20)、②明かりのたとえ(:21~23)、③量りのたとえ(:24~25)、④自然に成長する種のたとえ(:26~29)、⑤からし種のたとえ(:30~32)、そして、たとえのまとめ(:33~34)となっています。いずれにしても、ここで話されているたとえは「神の国」のたとえ(奥義)(:11)(:13)です。
「聞く耳のある者は聞きなさい」(:9、23、24、33)。
種まきのたとえ話が最初に来ているのは、まさに、「聞く耳を持ちなさい」ということでしょう。
先週の礼拝において「種と畑」と題して「みことばを聞いて受け入れ、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ」ことをたとえで学びました(マルコ4:20)。
* マタイによる福音書の中のイエスの山上の説教では、イエスは最後に、「わたしのことばを聞いて行う者」は、砂の上と岩の上に家を建てた二人をたとえて比べ、「賢い人」として語られています(マタイ7:24~27)。
マルコ4章の2つ目のたとえ話は、明かりのたとえです。
神の国とは、神の光(イエス)に照らされて、今まで隠されてきた神の奥義が明らかにされることです。そして、明かりは通常部屋全体を照らせる場所に置かれます。
神の光に照らされて、自分の罪深さ、愚かさ、みじめさを知る人は何と幸いな者でしょう。神は目に見えないお方ですが、イエスによって神を見ることのできる私たちは何と幸いな者でしょう。旧約時代の預言者たちは、何よりもイエス(救い主・神の御子)を見たかったのですから。
3つ目のたとえ話は、量りのたとえです。
神の国とは、イエスの量りを持つことです。私たちはどのように人を見て、評価するでしょうか。裁きの量りでしょうか。愛の量りでしょうか。人の世界は、憎しみと、復讐と、ねたみに満ちています。自分以外の誰かが富むことは嬉しくないのです。
人を量ってあげると、その量りで自分も量られ、さらにその上に増し加えられるとはどういうことでしょうか。あなたが人を裁き、赦さないならば、同じ量りで神に裁かれる。あなたが人を祝福するならば、同じ量りで神に祝福され、さらにその祝福は増し加えて与えられます。
神の国では、神の恵みの尺度で人を量ります。イエスは人をどのように見られ、愛されたか。神の国では、私たちもいつもその心で隣人を見ようとします。
持っている者はさらに与えられ、持たない者は持っているものまで取り上げられます。
祝福する者は、さらに祝福を与えられ、裁く者は、持っている祝福さえ取り去られます。
あなたはどのように人を量っていますか。
4つ目のたとえと5つ目のたとえは、「成長」がキー・ワード(KEYWORD)です。
命あるものは成長します。キリスト者は成長します。教会は成長します。
蒔いた種は人手によらず自然に成長して実を結びます。成長させて下さるのは神です。
神の国とは、神の恵み、力、おことば、聖霊の力強い働きによって、神の民が神の民としてふさわしい者へと成長することです。誰かが、何かがではなく、神が私たちを成長させて下さいます。それこそが神の国の住人の姿です。
やがて豊かな実りを刈り取る時が来ます。
5つ目のたとえ。神の国は、からし種のようなものです。粒のような小さな種が、鳥を宿らせるような大きな木に成長します。からし種のような、もっとも小さな者が、神の国ではもっとも大きな者になります。
どれほどに人は変えられるでしょうか。キリストにある者は、すでに新しい人です(2コリント5:17)。
イスラエルのガリラヤの田舎町で始められたイエスの宣教は、今、世界中に拡がり、東のはずれの私たちの国日本にまで及んでいます。
「祈り」はひとりの部屋でなされる小さな神の働きであるかも知れません。しかし、やがて世界を変えていきます。
命があり、健全であるなら、自然に、人や何かの力ではなく、神の御力によって、成長していきます。神の御力は私たちの人生を全く新しく造り変え、大きく成長させていきます。同じところにとどまっていません。日々、日々、新しく造られていくことこそが神の国です。年を取っていても、神の国の成長は止まりません。内なる人は、日々新しく造られて成長します(第二コリント4:16)。
イエスは「神の国」について多くのたとえを用いて、聞く力に応じて話されました。内容は分り易いものですが、その奥義は深いものです。たとえ以外では話すことがなかったとまで書かれています。
今私たちには、その奥義が開かれています。聖霊によって、その意味を知り、経験できます。
弟子たちにはたとえの意味を全て解き明かされたとありますが、主イエスに弟子として従う者(キリスト者)には、イエスは聖霊を与えて下さり、覆いに隠さず、全てを明らかにして下さいます。ハレルヤ。
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