5月17日(日)礼拝説教全文
「神の救い、あわれみの大きさ」マルコ5:1~20
(並行箇所:マタイ8:28~34、ルカ8:26~39)
序 イエスの主権について *「神の国」では、国民主権ではなくイエス主権。
・ マルコ4章 5つの「神の国」のたとえ
① 種まきのたとえ」②「灯りのたとえ」③「量りのたとえ」④「自然に成長する種のたとえ」⑤「からし種のたとえ」。
・ マルコ4~5章 4つの神の御子、救い主のしるし
① 「嵐を静めるイエス」②「悪霊を追い出すイエス」③「病を癒すイエス」④「死人を生き返らせるイエス」。その主権の領域――自然、目に見えない霊の世界、あらゆる病と患い、そして死。
・ マルコ6章 イエスの権威の十二弟子への付与と派遣。
神の国(イエス)が到来した今、誰が世界の「王」「主」であるのか。その主権、権威はどのようなものなのか。聖書の時代も、今も、神の御子イエスの主権、権威、その力強い働きはどこにまで及ぶのか。私たちは聖書のみことばによって、日々主イエスと共に歩む信仰生活の中でそれを知る者です。
1、 ゲラサ人の地(:1) イエスが「向こう岸へ渡ろう」と言われた地とは。
ゲラサ、デカポリス地方(:20)と呼ばれる所は、ユダヤ人が好んで行かない地方でした。ユダヤ人は豚肉を食べません。律法により豚は汚れた動物とされているからです(レビ11:7)。レビ記11章、申命記14章には、食べてはいけない動物のリストが記されています。
2千匹もの豚を飼い、売って糧を得ていた町の人々。ユダヤ社会の中にあってはアウトロー(無法者)の場所(サマリヤ地域もそうであった)でありました。
2、汚れた霊につかれた男(:2~5)
イエスが「向こう岸」に到着すると、すぐにイエスを迎えたのは、汚れた霊(悪霊)につかれた男でした。彼の中に入っていた悪霊はイエスを知っていました。
悪霊につかれた人、汚れた霊につかれた人とはどのような人なのでしょうか。
彼は町ではなく、墓場に住んでいました。暴れるので、町の人が彼を足かせし、鎖でつなぎましたが、鎖を引きちぎり、誰も彼を押える事ができませんでした。裸で、夜昼となく墓場や山で叫び続け、石で自分を傷つけていました。この様子を通して知るのは、
悪霊は聖い場所を好みません。そこには、不品行、汚れ、好色があります。
悪霊は光を好みません。そこには、闇、偶像礼拝、魔術があります。
悪霊は平安を好みません。そこには、混乱と争い、敵意・争い・そねみ・憤り・党派心・分裂・分派があります。
悪霊は健康・命を好みません。そこには、酩酊・遊興があります。
悪霊は愛を好みません。そこには、憎しみ、無関心があります。
(ガラテヤ5:19~21)
悪霊の好む場所・心の部屋を知りましょう。私たちの生活の場、心の部屋の状態はどのようなものでしょうか。(どのようなものにいつも関心をもって暮らしているか。)
悪霊は神を崇めず、神に逆らい、みことばを嫌っていますが、神がどのようなお方か良く知っています。みことばも良く知っています。神には従わず、礼拝はしませんが、恐れています。
私はどのような人が悪霊につかれているのかを、(牧師ではありますが)判断することができません。特別に判断できる時を神様がくださるかも知れませんが。どこかの人が言うように、何か悪いことが起こると悪霊によるとか、心が病むと悪霊によるとか、神社・仏閣の近くに悪霊がいるとか、超常現象が起きると悪霊のしわざであるとか、そのような判断をくだす霊感は私にはほとんどありません。
しかし、悪霊は何を好み、何を嫌うかは知っています。即ち、悪霊は神を崇める場所を好まない。
私たちが信じる十字架による救い、神を褒め称える賛美、神の戒めであるみことばに聞き、従うこと、神に求める祈り。しかし、悪霊は、みことば、祈り、賛美、礼拝、教会生活、信仰生活を嫌います。神への信頼を最も嫌います。
そして、悪霊が好むものとは、悪霊は、神に逆らい、神に無関心な者、神の前に不信仰・不敬虔で、高慢な人を好みます。欲のままに、自分の思うがままに、自己実現のために生きる人を好みます。
3、彼らの名はレギオン(:6~13)
男にとりついた悪霊は、イエスに、その男から、その地方から追い出さないように願います。
その願い求め方も、イエスに駆け寄って来て拝し「いと高き神の子」とイエスに叫び、「神の御名によってお願いいたします」と言っています。悪魔は偽りを好みます。そこには真実も誠実もありません。
イエスは、彼の中に入っている悪霊に名を問います。彼らは「レギオン(ローマ帝国の1兵団 5000~6000)」と答えます。
ただの悪霊につかれている男ではなかった。一人の人に何千ともいう悪霊が入っていたのです。
彼らは、山腹で飼っていた豚の群れに移ることを求めます。イエスはそれを許されます。
2千もの豚の群れは、険しい崖を駆け下り、湖になだれ落ちて、おぼれ死にます。
4、町の人々の反応(:14~17)
この地方から離れてもらうように願った。
悪霊につかれていた、あの誰もが知っている男が、正気になったことを知って
飼っていた豚が、全て死んでしまったことを知って
悪霊につかれた男が解放された喜びではなく、豚を失ったことへの失望、怒り。
5、悪霊から解き放たれた男(:18~20)
解放された男は、イエスについて行きたいと願い出るが、イエスはお許しにならず、「あなたの家、あなたの家族のところへ帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」と言われた。
「彼はデカポリス地方に、イエスが自分にしてくださった、【大きなこと】を言い広めた」、とあります。
墓場から家族の元へ
男は悪霊につかれ、町の誰も彼を押えることが出来なかった。彼と家族はどんな関係であったでしょう。彼の責任ではないと言え、家族にも苦しみを与え、町中の人に迷惑をかけたでしょう。その回復、復帰を誰もが喜んで迎えたかどうかはわかりません。またおかしくなるかも知れない。そんな不安もあったかも知れません。
しかし彼は正気に戻っただけではなかった。自分の身に起こった、イエスの大きな力、あわれみを人々に知らせたのです。病気が治っても、悪霊が出て行っても、災いが過ぎても、大事なのは、イエスに救いを受けた者の新しい歩みです。
「主があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったか」、それを知らせるのが、主に救われた者の生涯です。
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