5月24日(日)礼拝説教全文
「信仰とはイエスへの期待」 マルコ5:21~34
(並行箇所:マタイ9:18~26 ルカ8:41~56)
序 主権
「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。イエスの説教のテーマは「神の国」です。「神の国」に生きる素晴らしさを話されました。神の国の話を数多くたとえで話されました。
また、イエスは「神の国」の主権者として、その「しるし」を数多く行われました。「嵐を静めるイエス」は、自然界(創造物)に対する主権者の姿です。「悪霊を追い出すイエス」は目に見えない霊の世界に対して、「病を癒すイエス」は、あらゆる病・患いに対して、「死人を生き返らすイエス」は生と死、命に対しての主権者の姿です。
イエスの臨在、すなわちイエスの権威あることばと、力ある御業こそが、神の国の到来であります。
人間の前に立ちはだかる大きな困難、自然界、目に見えない霊の世界、あらゆる患いと病、そして死に対しても、「イエスは…」とマルコによる福音書は続きます。
本日の聖書箇所(:21~24) 評判が評判を呼んで、イエスのまわりに群衆が押し寄せていました。群衆に遮られて、イエスは会堂司の家に急ぎ間に合うことができませんでした。前に進めず、イエスの近くに寄ることもできない状況の群衆に紛れて、長血を患った女がイエスに触れることができました。この状況も神の栄光が現される大きな神のご計画の伏線となっています。
自分の思う様に物事が前に進むことができない時、そこにも素晴らしい神の御計画があることを静かに受け止めましょう。
1.どうすることもできない絶望(:25~26)
ガリラヤ湖の嵐、多くの悪霊につかれた男、12年間長血を患っていた女、会堂司ヤイロの娘の死、これらのことに共通していることは、人の力ではどうすることもできない絶望感です。
長血を患っていたこの女はどれほど深い苦しみを抱えていたのでしょうか。
*病の特有性―長血という病気は、一種の婦人病で、女性特有の出血が止まらない病です。レビ記15章では、女性の生理的出血の期間は、女性に触れてはいけない、汚れているからと記されています。先週学んだ汚れた動物「豚」もそうですが、汚れているわけではない。旧約聖書を今日的に解釈すると「衛生的」な生活を勧めているのがわかります。
*12年間の苦しみ―病気そのものの痛みと共に、汚れた者として旧約聖書の厳しい律法の下で12年間も苦しんでいました。ある面では、ツアラアトの苦しみに似ています。
*現在の状況―多くの医者・占い師からひどい目にあわされ、持ち物を使い果たし、かえって悪くなる一方でした。そこには、絶望・不安・涙・悔しさ・悲しみ、怒り・憎しみ、医者や占い師から受けた理不尽な苦しみがありました。
2.イエスへの最後の望み(:27~29)
群衆がイエスに押し寄せていた状況の中で、女は、ひそかに、隠れてイエスの着物に触ろうとしました。イエスの着物の裾にでも触ることができれば、きっと直る(救われる)と思った(言われていた)からです。イエスの評判、それはどんな病も患いも癒される、いや、彼の着物に触っただけでも癒されるというものであったかも知れません。そんな噂話とも都市伝説とも思われる薄い望みに、女は願いの全てを託しました。
手を伸ばして、はやる鼓動を抑えながら、誰にも気づかれないように。そしてイエスの着物に触れます。すると、出血が止まって、ひどい痛みがひきます。どんなにか女にとって驚きであったでしょう。誰も知らない、女だけが知っている、イエスの癒しの力が、今働いたのです。
イエスの主権・力を引き出したのは、女の純粋な、強いイエスへの期待であったと思います。
3.「だれがわたしの着物にさわったのか」(:30~33)
イエスはご自身から力が出たことを気づいて、(きっと誰が触ったのかも知っておられたに違いない)自分から進んで、前に出て来ることを求められます。「群衆の中を振り向いて」(:30)「見回して」(:32)と記されています。主イエスが探しておられたのは、長い苦しみの中にあったその女でした。
弟子たちは、誰が触ったなど群衆が押し寄せていてわかりません、とちぐはぐな答えをします。
女は、自分のことを探しておられることを知り、恐れおののいてイエスの前にひれ伏し、真実を余すところなく打ち明けます(:33)。
女は誰にも知られずに、イエスにも知られずに、その場を去ろうとしていたかもしれません。しかし、もし、このまま帰っていたなら、彼女には本当にイエスが直したのだろうか、これから先ずっと再発せずにいられるのだろうか、という不安も残ったかも知れません。大事なのは、救ってくださったイエスと救われた女の明確な関りです。深いイエスとの関りこそが重要です。イエスに話し、イエスからおことばをいただき、イエスを信じて生きていくことが大事なのです。
女は自分の身の上と、イエスを証詞することとなります。
結び
イエスからいただいたおことば、「娘よ、あなたの信仰があなたを直したのです(救ったのです)。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい」。何と愛に溢れたおことばでしょうか。これがイエスのおこころです。神の国(の姿)です。安心して、病にかからず健やかに生きる。天の国には病も不安もありません。御国が来ますように。
イエスは、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。主イエスの言われた、この女を救った「信仰」とはどのようなものでしょう。それは難しい何かではない。イエスへの期待です。私たちは何に期待しているでしょうか。エジプトでしょうか、アッシリアでしょうか、バビロンでしょうか。鼻から息する者にではなく、神に、イエスに期待します。
イエスに近づき、イエスに触れた女。しかし、女がイエスに触れたのではなく、イエスが女の魂、生涯に触れてくださり、救いを与えてくださったと、この記事を読むことが出来ます。
信仰とは難しいことではない。主イエスに期待すること、イエス様は必ず成して下さると期待することです。主に信頼する者は失望に終わることがない。あなたのあらゆる課題に対して、主に期待しましょう。
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