6月14日(日)礼拝説教全文
「神のみわざの起こる場所(心)」マルコ6:1~6
-郷里宣教-イエスの力と、私たちの信仰
(並行箇所:マタイ13:54~58、ルカ4:16~30)
ここまでのマルコによる福音書(イエスの公生涯を再度思い返してみましょう)。
イエスの宣教開始のことばは「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」でした。
そしてイエスはその神の国について、多くをたとえで話されました。
後、その神の国の主権者、神の御子、救い主としての、4つのしるし(奇跡)の記事を読み進んで来ました。
その続きの本日の聖書箇所を見ますと、イエスは郷里に戻られ、郷里で宣教されます。
郷里での宣教(:1~6)
(* 郷里への宣教を神様から与えられ、そこで宣教する牧師も多くいます)
ナザレの地は、イエスがヨセフとマリヤの子・長男として、約30年間大工として生活された場所です。大工といっても、家を建てるというよりは、家財道具・農耕具等を作る大工の仕事だったと言われています。
イエスと共に弟子たちもイエスの郷里ナザレについて行く。故郷に錦を飾るという言葉がありますが、様子は違っていました。
安息日にナザレの会堂で教えられるイエス(:2)
人々はこれまでと同じく、イエスの知恵(ことば)と力あるわざ(行い)に驚きました。他の場所と変わらない人々の反応、主の宣教とみわざでありました。
しかし、人々の反応が違ったのは、この地の人々がイエスを小さい時から知っていた人たちでした。「この人は大工ではありませんか(大工の息子は大工、奴隷の子は奴隷)。そして、マリヤの子で、兄弟はヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン(そして妹たち)ではないですか」(:3)。(兄弟姉妹は「いとこ」とも訳せる言葉です。)私たちとここに住んでいる者ではないか。30年間、人々はイエスの成長も、暮らしぶりも良く知っていた。つい最近まで見ていた自分たちの隣人の姿。
人々がそうであれば、なおさら兄弟姉妹たちは、イエスへの信仰を持てなかったと思います。
「こうして彼らはつまずいた」とあります。
イエスは言われます「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里・親族・家族の間だけです」(:4)。
郷里での宣教の結果(:5)
そこでは、何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけだった。
「イエスは彼らの不信仰に驚かれた」(:6)とあります。 信仰のない場所。
① ナザレの空気
人の固定観念は、イエスは大工の息子。大工の息子に何ができるのか、というものです。ここには、日常生活の自分達の経験や常識に縛られた人々の姿があります。イエスは救い主ではなく、知人のひとりでしかなかったのです。
イエスを信じない人々。その権威、救いを信じない、認めない人々がいます。
嵐を静める、悪霊を追い出す、病人を癒す、まして、死人を生き返らせる、など、大工の息子にできよう筈もない。
イエスの力あるわざ(奇跡)の起こる場所では、多くの者にしるしが起こります。そうでない場所では、少数の者にしか起こらない(全くないわけではない)。
恵まれた集会(場所、その心)とは、主イエスの権威を、常識の外に見出します。必ず主は不可能を可能にして下さるという熱い期待があり、イエスへの期待と信仰が満ちています。
主イエスの権威が苦しむ者たちに力強く働いてくださるのは当たり前、当然のこと、という人々の空気がその中にあります。
実はこの霊的な環境・空気が最も必要です。(私達の、私達ひとりひとりの、信仰が必要です。)
非常識な行動、考え方を持てというのではない。全能の神を信じる信仰をみなが心底から持つことが必要なのです。
* 韓国に30年前に働いていた聖霊の働き。日本の戦前・戦後のリババル。霊的覚醒運動。
この霊的覚醒は家族に、親族に、街に、国に世界に起こる出来事です。
国が、街が、親族が、家族が 祝福されることです。祝福とはそこにいるキリスト者が、みな、霊の目が開かれて、主の力強い権威(神の国)を熱く期待し、感じ、求めることなのです。
② 聖霊の好む場所(ヨハネ3:8)
祈りは世界を変えます(空気を変えます)。重い・閉塞的な・懐疑的な空気を変えます。
祈りの中に聖霊が働くからです。空気が変わらない筈がない。
* 教会は多くの祈りがささげられ、そのために建てられた場所であり、聖なる地(ホーリーランド)です。
(大島泉の家の証し)
聖霊が働いて下さるのでなければ、何も神のわざは起こりません。私たちは神、イエスの力あるみわざを信じます。
③ 神のみわざは、イエスを信じること(ヨハネ6:28~29)
最後に、何が最も大きな神のみわざでしょうか。それは何か目を見張るような奇跡のように思いますが(それも必要なら主が与えて下さいます)、主イエスが言われたのは、「神が遣わした者(イエス)を信じること」です。
人が目をみはるような奇跡が起こっても、イエスを信じなかったなら、それはまことに神のみわざと言うには小さな出来事です。
私たち勝田台キリスト教会が、私たちの心が、イエスの大いなるみわざの起こる、聖霊が力強く吹いているところでありますように。
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