6月21日(日)礼拝説教全文
「派遣される者の心得」 マルコ6:7~13
(並行箇所:マタイ10:1、9~14、ルカ9:1、3~5)
ことばと行い
『私たちと共にいてくださるイエス』というお方を知る上で、そのみことばとみわざをマルコによる福音書から読んでいます。イエスは、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言われました。権威ある教えをもって「わたしに従って来なさい」と人々を招き、神の国についてたとえで話されました。又、その神の国の主権者として、嵐を静め、悪霊を追い出し、病を癒し、死人を生き返らせられました。
イエスの周りにはいつも多くの群衆が押し寄せていました。イエスはひとりで、「神の国」の働き、宣教活動をなさらず、十二弟子をお選びになります(3:13~19)。イエスは常に身近に十二弟子を置かれました。それは、彼らにご自身の権威を持たせ、福音宣教に遣わすためでした(3:14)。
時が来て(これまでイエスの側にいて、そのみことばと、働きを経験してきた弟子たちでしたが)、いよいよ十二弟子がイエスの許から派遣されます。数週間、数か月間でしょうか、短期宣教。イエスの働きをするために。
本日は、十二弟子を派遣するにあたって、どんな心得をイエスが語られたのかを読みます。
これは、今、私たち、イエスによって世に派遣されるキリスト者にとって、しっかりと受け止め、自覚しておくべき事であると思います。
1、 ふたりずつ遣わされた
イエスは十二弟子を二人一組に分けました。チームを作ります。一人と二人は何が違うでしょうか。二人ですと、協力し、互いに祈り合い、支え合うことが出来ます。くじけそうになった時、不安になった時、信仰が無くなりそうになった時も、祈り合い、励まし合うことができます。互いに愛し合い、祈り合い、支え合う訓練の時でもあります。信仰の友、神の働きの同労者はいかに必要なことでしょう。
* 板橋教会で行っていた祈りのパートナーシップ * パウロによる宣教の同労者たち
東京聖書学院では、夏期伝道というものがあり、夏の期間、修養生たちが全国へ派遣されて行きます。私が入学して間もない1年生の夏、「伝道チーム」に任命されて、現在福岡教会、柳川教会で牧師をしておられる江副謙一牧師(当時2年生)と2人チームで、成田、武蔵村山、久喜、海老名(現在のひばりが丘)に遣わされました。
成田では2万枚の教会案内を配布し、各教会へ移動しながら、音楽集会、映画会、伝道集会、子供会などを行いました。朝毎に共に祈り合い、なすべき教会の働き、今日1日の働きのスケジュールを確認し、話し合って一ケ月半の期間を過ごしました。
夏期伝道を終えた修養生たちは、聖書学院へ帰って来て、リトリート(退修会)を行い、それぞれの派遣された場所での経験を分かち合い、証詞します。いろいろな意味で、大きな成果を上げて帰って来る者、傷つき疲れ果てて帰って来る者、様々であったと思います。
* 勝田台教会の開拓当時も、聖書学院から伝道チームが遣わされています。小林重明師・溝口寛師・水間照弥師・山脇満師の4人。
主の働き、宣教は一人でするものではない。チームで心を合わせてその働きをすることが求められています。互いに意見が対立することもあるかも知れない。しかし、私たちはキリストにあるワン・チームです。
2、権威をお与えになった
イエスは弟子たちを派遣するに当り、ご自身の権威を弟子たちに与え、委任されました。悪霊を追い出し、病人を癒す権威でした。それはイエスが行なっておられたのと同じ神のみわざです。アンバサダー(大使)は、その国の様々な特権を代行します。
* マタイは特に詳しく書いています。「病人を直し、死人を生き返らせ、ツアラアトを患っている人をきよめ、悪霊を追い出しなさい」。そして、お金を取ってはならない「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10:8)。
ルカによる福音書では、イエスの「力と権威をお与えになった」(ルカ9:1)とあります。イエスがキリスト者に委任しておられる権威、力の大きさを知ります。私たちはそれをどれくらい自覚しているでしょうか。
3、 何も持って行くな
私たちは旅をするために様々な準備をしますが、食べ物、カバン、お金、着替えも何も持って行くな、とイエスは言われます。私たちは日々生活するための必要があります。一ヶ月の派遣期間をどのように過ごせばいいのでしょうか。どうしてイエスはそのように、あえて命じられたのでしょう。全てを神に求め、神が与えて下さったという経験をいただくためにではないでしょうか。決して容易い命令ではありません。
* ゼロからの開拓に任命された牧師たち
* カラスと貧しいやもめの女に養われたエリヤ(第Ⅰ列王記17章)
* 大先輩の牧師の証詞 米びつに米が尽きてしまった時の証詞
4、足の裏のちりを払い落としなさい
ユダヤ人の習慣に旅人をもてなすというものがありました(ヘブル13:2)。神のみわざを受け、福音を信じ受け入れる人がいたら、その一軒の家にとどまりなさい。それは、神が備えて下さった人、家だからです。派遣された者は、神が備えて下さったという経験を繰り返します。
「主の山に備えあり」。私たちの人生には神の備えがあり、導き、守り、養いがあります。
その地が、町が、人々がイエスを受け入れないなら、足の裏のちりを払い落としなさい、とイエスは言われました。それは抗議のしるしではありません。
足の裏のちりを払い落す時は、その祝福があなたに帰って来る時です。拒絶されたなら、怒ったり、裁いたり、失望せず、又、自らを責めることなく、全ての責任を彼らに委ねなさい(神に委ねなさい)。
結び 遣わされた弟子たちの成したこと(:12~13)
悔い改めの福音(みことば)を宣べ伝え、悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油を塗って癒した(神のわざ)。イエスのメッセージとわざを代行した。
私達キリスト者、キリストの教会のすべきことの考察
・ イエスに遣わされている者であることの自覚
・ 教会の働きに私もチームとして共に加わること
・ イエスの権威を託された者として、信仰と期待を持つこと
・ みことばを宣べ伝え、そのわざをすること(福音宣教と、解放・癒し)
悪しき力(悪霊・汚れた霊)からの解放
文明・科学が進んで、私たちの暮らしは変わったが、人そのものは変わらない。紛争、虐殺、テロ、環境破壊、飢餓、人身売買、拉致・誘拐、人種差別、略奪、児童虐待、不正・ワイロ、不倫、ハラスメント…世界は、人は、何か目に見えない悪しき力(悪霊)に捕らわれている。
聖い霊、キリストの権威による解放
様々なあらゆる患いからの癒し 身体的・心的・社会的に傷ついた体と心の癒し。
イエスは身ひとつであられるが、主は村や町にその弟子たちを遣わされる。
主イエスはおひとりだが、主の弟子たちが世界中に、町に、家に、福音を知らない人に遣わされる。
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