7月5日(日)礼拝説教全文
「イエスに自分をささげなさい」 マルコ6:30~44
(並行箇所 マタイ14:13~21 ルカ9:10~17 ヨハネ6:1~15)
序 飼う者のいない羊(:30~34)
二人一組で派遣された十二弟子は、短期宣教(6:12)から帰って来て、自分たちのしたこと、教えたことをイエスに報告します。弟子もイエスも休息が必要でした。しかし、イエスの周りには多くの人々が押し寄せ、食事をする暇もない程でした。イエスは弟子たちを休ませるために、わざわざへんぴな場所に舟で移動されます。町を離れ、青草以外何もないガリラヤ湖岸のなだらかな丘を目指して。しかし、舟が寂しい場所に到着すると、既に岸にはイエスを探し求めて、多くの群衆が先回りをして集まっていました。
イエスは、「飼う者がいない羊のような群衆をご覧になり、そして彼らを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」(:34)。
イエスがご覧になったのは、肉体的、霊的に飢え、疲れ果てている群衆の姿です。成人男子だけで五千人、女性や子供を合わせると一万人以上の人々の姿でした。
イエスの目は、今、この世界、この日本、私たちをどのようにご覧になっておられるでしょうか。
コロナ禍、自然災害によって不安の中にいる人々。目的も到着先もわからず、迷いの中にいる人々。身体や心を病んで悩んでいる人々。社会に馴染めず、生きづらさを感じている人々、何をしても満たされない心で歩んでいる人々。自らの力ではどうにもならない困難や悩みの中で、弱り果てている人々。
私たちは弱い羊であり、私たちには、導き、養い、守っていただく羊飼いが必要ではないでしょうか。
1、あなたがたの手で食物を上げなさい(:35~40)
町から離れたへんぴな場所で群衆に教えておられるうちに、夕方になり、しかし食べる物が何もない状況でした。誰も食べ物を持っていなかったのは、人々が貧しかったせいかもしれません。
弟子たちは「群衆を解散させ、自分たちで食べる物を買うようにさせてください」とイエスに進言します。
するとイエスは、「あなたがたの手で食物を上げなさい」と言われます。
イエスは私たちの必要を知っていてくださいます。そして、精神的、霊的な心の糧だけでなく、実質的にパンも与えて下さるお方です。
イエスが弟子たちに命じられたことは、無謀なチャレンジのようにも思えます。
私たちは「できない、足りない」(不可能)を計算します。
「200デナリでパンを買って来ても足りません」
* 1デナリ=当時の1日の給料、日当に相当
現在の千葉県の最低賃金 時給923円 8時間労働で1日8,000円とすると、その200倍は160万円、それを1万人に分けると一人=160円
200デナリあっても、ひとり160円分のパンしか食べられない(円で換算はできないかも知れませんが)。
手もとにある5つのパンと2匹の魚(子供が持って来ていた弁当 ヨハネ6:9)では、何の役にも立たない。
2、イエスのもとへ(:41)
ああ、私たちの手持ちはいかに乏しく、自分も家族も、周りの人々の空腹も満たすことのできない者でしょうか。しかし、そのわずかな私たちの持てるものを、イエスは「わたしのもとに持って来なさい」と言われます。
自分はそのままでは、何の役にも立たない者ですが、全てをイエスに献げるとき、素晴らしい神のみわざが起こります。
5つのパンと2匹の魚は、(弱くて小さな、足りない者であっても)
イエスの手に渡され、(イエスの手に献げられる時に)
イエスがそれを祝福し、(イエスがその者を祝福し)
それは裂かれ、(イエスと共に十字架を負う者として)
弟子たちに渡され、(イエスの祝福を託され)
全ての人々に配り、分けられます。(イエスの祝福を多くの人々に分かち合う者となります)
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」(ローマ12:1)。
3、あり余る祝福(:42~44)
その結果はどうだったでしょうか。
人々はみな、食べて満腹しました。
残ったパン切れを拾い集めると12の「大型のかご」にいっぱいになりました。
あなたが神の祝福を多くの人に分かち合うために、今、自分をイエスに献げなさい。イエスがあなたを祝福の器として豊かに用いてくださいます。
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