7月12日(日)礼拝説教全文

「わたしだ(エゴー・エイミー)。恐れることはない」 マルコ6:45~56

(並行個所 マタイ14:22~36、ヨハネ6:15~21)

5千人の給食の奇跡の反響は大きく、群衆とイエスの弟子たちの驚き、興奮は冷めやらず、であったと思います。悪霊を追い出し、病人を癒すばかりか、今日のパンの奇蹟によって空腹をも満たしていただいた群衆は、ヨハネによる福音書では、イエスを王に祭り上げようとしました(ヨハネ6:15)。群衆は興奮すると恐ろしい暴動を起こしかねません。

1、 ひとり山に退かれるイエス(:45~46)

イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、ベツサイダ(ガリラヤ湖北部、カペナウムの町の東)へ向かわせます。イエスは残られ、群衆を解散させます。その後、群衆と別れ、ひとり山に向かわれます。

何のためにひとりになられたのでしょう。「祈るために」とあります(:46、1:35)。

大きな神の働きの後に、幾度もひとり寂しいところへ行き、祈られるイエスの姿が聖書の中にあります。

大きな業・成功の後には、大きな誘惑・罠があります。非常に無防備で危険な状態でもあります。どんな誘惑があるのでしょう。神に栄光を帰すことをせず、自分の誉れとする誘惑です。褒められると、鼻が高くなり、高慢になり易いのが人の常です。

イエスが私たちに見せて下さるのは、「へりくだった祈りの人」の姿です。神の働きをする前に祈られます。そして、神の働きの後にも祈られます。私たちのイエスでさえも、父なる神に祈られました。私たちは祈りなしで、神のみこころに生きることは決してできません。

静まって祈る。ひとりで神の御前に自分の身を置く場所、時間を聖別しましょう。

2、逆風の中の弟子たち(:47~48)

 イエスが移動手段によく舟を使っておられるのがわかります。カペナウム、ゲラサ、ベツサイダ、ゲネサレ、テベリヤ。十二弟子の中4人がガリラヤ湖の漁師ですから、舟の調達、操作も手慣れたものだったと思います。

 以前もゲラサに舟で向かう途中、大嵐に遭遇した事がありましたが(4:35~41)、今回も逆風の突風で進むことができませんでした。夕方には(:47)湖の中央まで漕ぎ出したのに、午前3時になっても向こう岸に到着しない。舟が進まなくて、疲労困憊している弟子たちでした。ガリラヤ湖は対岸が目視できる位の湖で、大きな湖ではありません。 * ガリラヤ湖の大きさ 南北21㎞、東西13㎞。広さ166K㎡(比較:霞ヶ浦168㎢)。

3、湖の上を歩くイエス(:48)

 イエスは、湖の中央で舟を漕ぎあぐねている弟子たちを岸からご覧になり、真夜中の3時頃、荒れ狂う波の湖の上を歩いて、弟子たちの舟の方に向かわれます。そして、舟のそばを通り過ぎようとされました。人が湖の上を歩くなんてあり得ない。だから聖書は信じられない、という人も少なくないかも知れません。ある学者は、ただ湖畔を歩いておられただけだとか、そこだけ浅瀬になっていたとか苦しい説明をします。しかし私たちは、イエスは神の御子であられ、お出来にならないことは一つもありません、と今日も告白します。何でもかんでも信じるのではありません。イエスであられるからこそ信じます。

4、怯え、取り乱す弟子たち(:49~50)

 弟子たちの反応はどうだったでしょう。波立つ湖の上を、歩いて近づいて来る白い人影を「見て、幽霊だと思い」、恐れ、怯え、「叫び声を上げ」ます。大の大人が怯えて大声を出しているのもみっともない様にも思います。闇を恐れ、風を恐れ、波を恐れ、幽霊だと言って恐れます。「幽霊」(ギリシア語:ファンタズマ=ファンタジーの語源)とは聖書の中でも不思議な表現ですが、人は得体の知れないもの、未知のものを恐れます。

 人は、私たちは恐れます。恐れは、平安を奪い、安心・勇気・愛・休息・自信・光りを失わせます。

人は何に恐怖を抱くのか。病気・悪霊・死・裁き。自然災害・疫病・戦争、そして痛み、等々。

 幽霊がいるのかいないのかはわかりません。一度も見たことのない幽霊(悪霊・汚れた霊とは別)になぜ人は恐怖を抱くのでしょうか。それは死と闇に誘われる恐怖です。

 何かによって恐れに支配される時、私たちは闇の中に閉じ込められてしまいます。

 聖書の中でイエスは「恐れるな」と何度も言われていますが、それは私たちが恐れに支配されやすい、弱い人間であることを知っておられるからです。私たちの住む世界は、恐れ、思い煩い、不安の材料に満ちています。

5、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」(:50~51)

しかし、イエスは「すぐに」(:45)彼らに話かけられ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。(「すぐに」参考 :50、54)

私達はこの時代の中にあって、今ある私の生活の中にあって、また未来に向かっても、今日も、イエスのこのおことばを聞きます。

 キリストを信じているから、恐れ、不安、思い煩い、孤独、絶望を引き起こすような出来事は起こらないのではない。恐れを抱かせるような出来事が私たちの人生から無くなってしまうのではない。しかし、私たちはキリストを持っています。どんな逆風にも、未だ経験した事のない災禍の中にも、既に、キリストという平安(シャローム)を持っています。そしてそれを奪うものは何一つないのです。

⦅ローマ8:35~39⦆

 イエスが舟に乗り込まれると、風はやみました。

6、パンのこと(奇蹟)から悟ることなく、その心は固く閉じていた(:51~52)

 弟子たちの心中の驚きは非常なものでした。

 師の心、弟子知らず、という言葉がありますが、未だイエスがどのようなお方であり、何を成そうとしておられるかを理解していない弟子たちの姿がここにあります。

 キリストのお心・使命、キリスト者知らず、でありましたら、誰が世にキリストを知らせることができるのでしょうか。

 キリストの御思いを求め、聖霊によって知らせていただき、日々を生きましょう。

7、ゲネサレの地での働き(:53~56)

イエス一行はゲネサレの地(ガリラヤ湖北西部、カペナウムの西の地方)に到着します。

イエスの働きは休むことなく続きます。町でも村でも部落でも、イエスがはいって行かれると、多くの病人たちが連れて来られ、また、広場に寝かせられます。病人を連れて来た人々はイエスを待って、せめてイエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願います。そして、さわった人々はみな、癒されました。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

0コメント

  • 1000 / 1000