7月19日(日)創立49周年記念礼拝 説教全文
勝田台キリスト教会 創立49周年記念礼拝 (創立日 1971年7月18日)
「イエスを告白する教会」 マタイ16:13~20
並行箇所 マルコ8:27~30 ルカ9:18~20
勝田台キリスト教会は、中居豊・栄子師が1971年3月日本ホーリネス教団から佐倉地域に任命され、何も無いところから宣教をスタートしました。修養生4名(小林・水間・溝口・山脇師)が短期宣教で応援をし、佐倉・八千代・米本・大和田で天幕集会を行いました。同年12月、八千代高校の前にプレハブの会堂が建てられました。この時、無から有を呼び給う神様を体験されたことにより、1979年11月手狭になった会堂から、現在の場所に建てられたプレハブの新会堂に移転し、その後間もなく隣接地とその家屋も与えられました。そして、1998年12月、現在の会堂が完成しました。
勝田台教会の歩みは今年で49年、来年は50年を数え、半世紀の歩みとなります。ここに至るまで、父、御子、御霊の神様が、教会を祝福し、導いて下さったことを感謝します。
近年、私たちは東日本大震災や、多くの自然災害に遭い、昨年の千葉の甚大な台風被害も含めて、経験した事の無いような困難を経験しました。
今年2020年に入り、世界にとっても、私たちにとっても、新型コロナウィルス感染拡大により大きな変換を迫られています。
世界中の人が「新しい生活様式」に変えなければならないと共に、私達キリスト教会も、新しい宣教と教育、奉仕の在り方を工夫しなければならない時を迎えています。本質を変えずに、方法を変える。不要・不急の外出自粛と、3つの「密」を避けねばならない生活の中、どのように宣教していくことが出来るのでしょうか。その方法について考え、これから取り組まなければならない事は山積しています。
本日は教会創立49周年を記念して、今一度、教会の本質について聖書から聴きたいと願っています。
本日のこの聖書の記事は、キリストの生涯において折り返し地点のような箇所と言えます。これまではイエスは、御自分が神の御子であることを数々のしるしを通して(ことばとわざによって)示して来られましたが、ここからは、イエスの最大の使命である十字架へと向かって行かれます。それは弟子たちが、イエスが誰であるかを明確に「告白」したことが起点となっています。
1、私の告白(信仰告白)
イエスはまず、(1)「人々は(第三者は)わたしのことをだれだと言っているか?」と問われます。いきなり弟子たちの考えを尋ねないで、まず周りの人々は何と言っているのか、世間の人々はどうわたしを見ているのかと問われます。これはある意味で、第3者のことです。人々はイエスを「バプテスマのヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人である」言っていました。弟子たちはそれをお伝えしました。
今日、世間の人々にとっては、イエスとは誰でしょうか。教科書に出て来る昔の偉人のひとり、キリスト教の創始者、たくさんの奇跡を起こした人、クリスマスの人、十字架で処刑された人、ユダヤ人、世界の多くの人々に影響を与えた人、見習うべき愛を説いた人格者、等々、でしょう。
(2)「あなたがたは、わたしをだれだといいますか」。ここで、弟子たちに対して、今までイエスに従って来て、何を見て来たのか、と問われます。
(先週は、悟らず、心が固く閉じられていた弟子たちの姿を見ましたが)シモン・ペテロが答えて言いました。
「あなたは、生ける神の御子キリストです」(:16)この回答はどうだったのでしょう。合格でした。イエスは、「シモン。あなたは幸いです。これらのことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」(:17)と言われる程に合格です。
キリスト(ギリシア語)・メシヤ(ヘブル語)=救い主
イエスキリストは神の御子 救い主 IXTHUS=魚(イエス、キリスト、神、御子、救い主)
参照:「あなたはキリストです」(マルコ)。「神のキリストです」(ルカ)。
重要なのは、 (3)「あなたはわたしを誰と言うのか」という、あなたに対するイエスの問いです。
これは、私達の人生における、最も重要な問いです。
私たちが、礼拝においてマルコによる福音書を通してイエスの生涯を読み、十字架、復活、そのメッセージと福音を聞いて、何と答えるのか。「あなたはわたしをだれだと言いますか?」
イエスはまさに、私にとって、「生ける神の御子キリスト」です。ここに、この告白に、救いがあります。
《あなたこそ、私の救い主です。あなたが十字架で流された血は、ここにいるわたしの罪のゆるしのためです。》
2、私たちの告白・教会の告白
ペテロの告白を聞いて、イエスは言われます。「わたしはこの岩の上に教会を建てます」
「この岩の上に」。教会の立つべき土台、岩とは何でしょうか。カトリック教会では岩をペテロとして、教会を使徒の権威の上に建てるとします。プロテスタント教会では「この岩」とは、使徒ペテロではなく、ペテロの信仰告白とします。
「あなたこそ、生ける神の御子キリストです」。これが教会の土台です。教会とは、「主イエスこそが、生ける神の御子、キリスト(救い主)です」と、世に告白し続けていく共同体なのです。
この信仰告白(岩)の上に建てられた教会は、ハデス(地獄)の門もそれに打ち勝てません。歴史の中にあったどのような激しい迫害にも、この告白は揺るぐことはありませんでした。
「あなたこそ、生ける神の御子キリストです」と時代の嵐の中にあっても告白する教会に、主イエスは天の御国のかぎを授けて下さいます。教会は天国の鍵を託されている驚くべき存在です。
天の御国の門が開かれる鍵とは、私たちの罪の為に身代わりとなって十字架に死に、三日目によみがえって下さった主イエスに向かって、「わたしにとって、あなたこそ、生ける神の御子、私の救い主です」と心から信じて、告白することです。ここに救いがあります。
信仰・告白、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」(ローマ10:10)
教会の使命は、主イエス・キリストこそ!今も生きておられる(よみがえられた)神の御子、救い主であることを、世に向かって告白し続けていくこと。これが教会の使命であり、キリスト者の使命です。
3、その告白は、存在をかけて
口先だけでなく、歴史の中で、社会の中で、生き方を通して告白していくことが大変重要です。歴史や社会や生活と関係なく、乖離(かいり)して、心の中だけで思っているのは告白ではありません。
自分の十字架とは、命がけの信仰告白です。殉教者(マルチュレオー)とは、信仰告白(キリストの証人、マルチュレオー)に命を懸ける者達です。
時にそれは、時代や社会の中にあって苦難を伴う道です。しかし、その道は苦難よりも、イエスによる救いの喜びが大きいのです。そして、それはイエスが教会にお与えになった神の使命なのです。
「ペテロ、信仰を言い表す」「イエス、死と復活を予告する」と新共同訳聖書の小見出しに記されています。信仰告白とは、イエスの苦難の道を続いて従って行くことです。
イエスを明らかにしたのは人間ではなく天の父です。信仰告白は決して、私たちの知識や経験によって告白できるものではありません。
神の御力によって、聖霊の力によって、イエスの愛と恵みによります。イエスと共に苦難を背負う道を歩むことは、人の力では従うことはできません。
後に、聖霊に満たされた弟子達は、事実、殉教の死を遂げたほどにイエスに従い通しました。迫害の中でイエスの足跡を踏んだ弟子たちがいます。
私達の勝田台教会は、世に向かって、八千代、佐倉、千葉の地に向かって、イエスを告白し続ける教会でありたいと願います。「イエス・キリストは、生ける神の御子、救い主である!」と。
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